最近の著作権談義に関する素朴な疑問。

※元記事は↓です。
知はうごく】「模倣が生む才能」著作権攻防(6)−3
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/entertainment/comic/37339

 JASRACにしても夏目氏にしても、同人市場の中でかなりのウェイトを占める成年向け同人誌についてどう考えているのかが非常に気掛かりです。
 一次創作者に対して著作権料が支払われるのは公正かもしれないけれど、仮にエロ同人サークルからの徴収が確立したら、それが実質的に「原作者公認」とみなされてしまって不都合が生じる恐れもあるんじゃないでしょうか?
 自分もエロ同人誌は大好きなので(笑)偉そうなこと言える立場じゃありませんが、正直これは物凄い地雷原だと思います。

具体的な問題点を書き出してみる

 とりあえず「同人擁護派の意見なので論拠が大幅に偏っている」ということは前置きしたうえで。

  • 認可制を導入した場合、未届けの二次創作はすべて著作権侵害という扱いになるのか?
    • 「黙認」との境界が曖昧、かつ版権元にも後述のような理由で明確な線引きを渋る立場の者は存在するはず。
    • 原作者が二次創作に好意的で黙認したくても、出版・販売元やメディアミックスの提携企業が拒否・または版権収入を望んだ場合は?
  • 二次創作物が”原作では想定していない”性描写や暴力表現・キャラ崩壊など、原作から逸脱・乖離した内容である場合、どのように線を引くのか?
    • いずれも同人誌ではそれなりに人気のある形式ですが、原作ファンが嫌悪や拒絶の感情を示すことも多く、好き嫌いは分かれます。暴力や黒いギャグそのものを問題視しているわけではないことに御注意。
  • 複数の作品をネタにした二次創作は、使った作品すべてに対して著作権料が発生するのか?
    • 北斗の拳サザエさん」系の作風混合ネタ、複数作品のクロスオーバー等。また、使用した作品のウェイトが異なる場合*1、その算出基準は?
  • 出版元自身や関連企業が二次創作的なグッズ…アンソロジーコミック・ノベル、アレンジCD、ファンディスク等…を出している場合、参加者を集めにくくなるのでは?
  • 二次創作そのものが原作やグッズの売上に貢献している広告塔効果への確実な悪影響。
    • また、大手サークルのHPやファンサイトがブログ等にグッズの購入報告を載せているのも、間接的に割と大きな宣伝効果を挙げていると思います。

 ぶっちゃけ無理難題的な意地の悪い指摘ばかりになってしまいましたが、やはり個人的には「いまやオタク向けメディアの多くは二次創作と不可分の共生関係にあるのだから、著作権料の支払いを巡る明確なルールを設けるのは双方にとって不利益」だと考えます。
(※いずれの項目も、「実際にカネを取ったり規制をかけたら、その作品/ジャンルの二次創作は激減して原作人気も不振に終わる」という前提で述べてみました。もともと二次創作への依存度が低い作品群*2は無視しています。)
 原則黙認で、どうしても目に余るようなら小学館のように動くか、二次創作による宣伝効果を拒否する覚悟で自社への直接認可制・審査公認制を設けるか……くらいが無難なところだと思うんですが。
 いずれにせよ、問題の複雑さをろくに知りもせずに第三者が割り込んでルールを強いても碌なことにならないのだけは確かです。JASRACは引っ込んでろということで。




 それから最後の最後に引用元の話題へ触れますが、「模倣が生む才能」説には自分も大いに賛成です。ローゼンメイデンだってシスプリの影響が色濃いですし*3

*1:たとえば「ネギま!」の同人誌で1ページだけ「シグルイ」ネタとか

*2:NANA」「のだめカンタービレ」「ハチミツとクローバー」等の少女漫画、「ブラックジャックによろしく」「クロサギ」等の青年コミックなど、いわゆる”一般人向け”のもの

*3:PEACH-PITが同人時代にシスプリ本を出していたことは有名。雛苺≒雛子、蒼星石の外見≒衛、金糸雀の立ち位置≒四葉など。また、作品全体のゴスロリ趣味もシスプリと微妙に被っています。

”ネギぽに”のキャラ配置に関する雑感。

 ……困りました。先週書いたエントリからの流れで「どうしてアニメ版『ネギま』はダメなのか」を書こうとしていたら、ここ2週ほどの『ネギま!?』が無闇に面白いじゃないですか!(笑)。いや確かに『魔法先生ネギま!』のアニメ化としては失格な部分も多いんですが、別物として割り切れば。
 特に今週は、このかと二人っきりで加速度的にダメ人間化していく刹那がオメガ可愛かったので高評価(笑)。


 また我田引水で恐縮ですが、ガッツがたりない日々の戯言さんが1/17付けエントリ(http://d.hatena.ne.jp/moreguts/20070117/1169037355)で仰っている内容に心底同感です。以下引用。

でね、今週の『ネギま!?』を観てて思ったんだけど、今回の話を面白くないと感じた人は来週から観るのをやめるべき。反対派の人を責めるわけじゃないけど、今回の話は視聴者が良くも悪くも本来期待していたであろう、所謂『ネギぽに』の典型例であり、日常生活を支える友情という大切なものをギャグ・ネタを詰め込んで描き、尚且つ『ネギま!』に必要なエッセンスも入っている超重要な話だから。

 15話以降は「各ヒロインと仮契約するまで」の過程に尺を割かなくてよくなった分、スタッフが本来描きたかった部分にウェイトを置けるようになったのが大きいんじゃないかと思います。

キャラ配置の『ぱにぽに』化には、それなりの意義がある?(超不完全版)

 で、今日の本題?
 とっくに既出かもしれませんが、今更ながらに『ぱにぽにだっしゅ!』のキャラ配置をなぞっている部分が分かってきたような気がするので、私的に書き出してみます。

  • ザジ≒一条さん?(意味不明で淡々としたリアクション、傍観者的ポジション)
  • まき絵≒くるみ+メソウサ?(いじられ役。今週の「地味って言うな!」で、くるみ役は確定?)
  • 千雨≒ベホイミ、または芹沢茜?(どちらも「本人からして十分変人なのに、周りがもっと変人だらけなせいで苦労性系ツッコミ役になっている」という立場。あと変身キャラ)
  • アスナ≒姫子?(ハイテンションで率先してバカなことをしでかす役。髪の毛を使ったリアクションから、もっと早く気付くべきでした(笑)。
  • いいんちょ≒南条さん?(これは説明不要かと)

 ざっと眺めていて、自信を持って言えるのはこのくらい。他にも立ち位置の重なっているキャラは多いかもしれませんが、こじつけになりそうなので割愛します。
 こんな風に置き換えてみると……「子供先生」ポジションのネギをベッキーとは正反対にシリアスでローテンションなキャラとして強調していることが、作品全体のカラーにも大きく影響してる一因なのかなあ?と思います。


 さてさて。
 例によって根拠のない憶測になりますが……これだけ意図的に原作と違う路線を追求しているのは、ストーリー構成上の都合*1や『ぱにぽにだっしゅ!』ファンへのサービス*2だけじゃないように思えてきました。
 ぶっちゃけ、原作と同じ比重でキャラを起用しようとすると、のどかや夕映のように「ストーリー的に重要なポジションだが、中の人も多忙で使いづらい」キャラが出てくるので、そのへんを考慮してキャラ配置を組み直したんじゃないか?と。ただ勿論、メインストーリーを進めるうえで最低限の柱になるネギ・アスナ・このか・刹那の4人については、きっちりスケジュールを確保してると思いますが。
 どうしてそんなことを考えたのかといえば、『ネギま!?』では比較的「中の人が売れてる割に出番も多い」部類に属する佐々木まき絵の扱いが特異すぎるから。彼女が本筋には殆ど絡まない代わり、いいんちょやモツとの漫才や次回予告時の番外編で妙に目立ってるのは、要するに別撮りしやすい方向でキャラ立てしたからじゃないの?と邪推してしまうわけです(笑)。
 また逆に、中の人があんまり売れてなくてスケジュールを押さえやすい場合は、その人の演じるキャラが使いやすくてついつい出番が増える……なんてケースもあるんじゃないでしょうか? 誰とは言わないけど。
 『ネギま!?』がネギ以外のメインキャラをあまり深く掘り下げず、脱線コントを数多く挟んだ群像劇として構成されてるのが、仮にそういう事情にも左右されてるのだとすれば、方向性が似ている『ぱにぽに』の味を加えたのは上手い判断だなあ……と。
 また、芸人が様々な”キャラ”を演じるバラエティ番組とも作り方が似てるのかも?と思います。先ほど「メインストーリーの柱」として挙げたアスナ・このか・刹那の3人ですら、クラスメイト全員に仮契約パートナーの役割が拡散した今となっては「司会進行役のレギュラー」的な扱いを受けていますし……。『ネギま!?』に限って言えば、仮契約パートナーは「状況解決の手段」にすぎず、それこそ「(特定の誰かではない)”どなたか”力を貸してください」で済んでしまうんですよね。。


 余談ですが、googleツールバーで「佐々木まき絵」を検索しようとすると自動的に「佐々木まき絵 失格」が表示されるのは何気に非道いですね(笑)。

*1:2クール26話で原作とは独立して観れる作品に仕立てるため

*2:ネギま!?』の視聴者すべてが『ぱにぽにだっしゅ!』ファンとは限らず、別作品のノリを持ち込んだことに対して反発を抱く人も当然いることに注意。そんな基本的なことも弁えずに同工異曲の作品を送り出すほど、スタッフも馬鹿ではない……と信じます。

超鈴音は手を抜いたのか?敗北を望んだのか?

 ここ数週の『ネギま!』を読んでいて釈然としない部分があったんですが、ちょうど今週出たコミックス17巻を読み返したら自分なりに解釈できました。
 ……で、ちょうど同じような問題提起をされていた方がいるので、便乗して言及リンクを貼ってみます。

麻帆良祭の間に超がした事・された事「いつかは何かがある」さん、ネタ元:マンガ☆ライフさん)

もう一度言いますが、超は未来を変えに来たはずです。
それなら、それを阻止されるわけにはいかないはずです。
また、未来を変えるために全てを尽くすはずです。
しかしこれらは、まるで未来を変えることを阻止して欲しかったかのような言動です。
前々から、実は超は未来を変えようとして失敗するのが目的だった、という説がありますが、ますます真実味を帯びてきた感じです。
これについての詳細が分かるのは、まだまだ先でしょう。

 VS超戦決着後の様々な”ヌルい”出来事……たとえば「強制認識魔法発動、しかしその内容は、超がまけたら無害な別のものに変わるようになっていた(160) 」「超家家系図を提示、本物かどうかは不明(162) 」(もし使えば間違いなく超が勝っていたというコメント付き)を見ると、彼女は「勝てるはずの戦いであえて手を抜いた?」ように思えるかもしれません。そもそも、ネギは超からカシオペアをもらっていなければ、一連の事態に全く対処できなかったはず。
 ……が、おそらく超は彼女なりの信念に基づいて「ゲーム」の条件と舞台を築き上げ、その範疇においてベストを尽くしたのだと思います。
 その条件とは、「ネギにカシオペアを与えたうえで改変後の未来へ送り込み、自分と”同じ舞台”に立たせて勝負すること」。そして動機は、超自身も己の正しさを絶対視してはおらず、あえて阻止の機会を作ることで歴史とご先祖様の審判を仰いだのではないか?と、自分は考えます。
 後者の動機を満たすだけであれば、ただ単に自分の目的を明かしてネギと対峙すれば良かったでしょう。でも、どうして超はあんなに回りくどい手順を取ったのか? その回りくどさにこそ鍵が隠されていると思うんです。

「よくここまで辿り着いたネ ネギ坊主 そして……”これで君は私と同じ舞台に立った”」(156時間目、””内に傍点)

 これが最大のキーワード。「同じ舞台に立った」というのが物理的に対峙したという以上の重いニュアンスを持つことは間違いありません。
 では、「同じ舞台に立った」というのは何を意味するのか? ……これまでの経緯を辿れば答えは明白。ネギ自身が己の意志と覚悟に基づいて「歴史を改変する」立場を選択し、加害者VS被害者ではなく改変者VS改変者という対等の構図で超に挑むことです。そのお膳立てを整えるために、超はわざわざ自分の計画への対抗手段であるカシオペアをネギに渡し、なおかつ「超が勝利を収めた未来」へネギたちを一旦送り込む必要があったのだ……と、自分は考えます。超が自分の想いを貫き通し、なおかつネギたち魔法使いが阻止せざるを得ない状況を作って対決に追い込むためにも、このプロセスは不可欠だったのでしょう。
 あと、究極兵器(笑)こと超家家系図を実戦投入しなかったのは、自分の出生にも影響を与えかねない危険物だったからでしょうね。(ちなみに、周りを煙に巻くような言動やノリの軽さから見ると、彼女には朝倉かパルの血が混ざってるんじゃないか?という気もします(笑)。
 自分が釈然としなかったのは、「超自身の諦めが良すぎるのは構わないとしても、彼女の目的に賛同した仲間たちが納得するだろうか?」という点なんですが、これも「ネギと”同じ舞台”に立って勝負し、その結果に身を委ねる」というスタンスをあらかじめ提示しておいたのではないか?と推測できます(また、だからこそ賛同を得られたと解釈することも可能)。そう考える理由は、シリーズ通じて超側のキャラに必死さや悲壮感がほとんど表出していないから。


 ただ、そういう風に超の動機を説明したうえでも、若干腑に落ちない点は残るんですが。差し替えられたハカセの願い(せめて今日1日だけでも……という奴)でさえもバタフライ効果で後々の歴史に影響を与えるんじゃないか?とか、超と組んでいて一番得したのは実はハカセだったんじゃないか?とか。……あれれー、なんか黒いよー?(笑)


 最後に一応追加。
 このエントリでは自信たっぷりな調子で書いてしまいましたが、すべて自分の憶測にすぎません。他の可能性、たとえば「超が初めから計画の失敗を望み、ネギたちを鍛えるために打った大芝居である」みたいなパターンも十分ありうる……ということで。

(1/21追記。)

 ごめんなさい、肝心な部分がすっぽ抜けていました。
 結局のところ、「超はあくまでネギに”自分に対抗しうるチャンス”を与えただけであって、勝ちを譲る気はさらさらなかった」と判断する理由を、同日付のエントリに書き足しておきます。

  1. ネギ陣営は結果的に勝利したものの、過程を振り返れば綱渡りの連続だった。「魔法バレ後の未来」からの帰還、強制認識魔法儀式への対処、VS超の個人戦闘など、すべての局面において「ネギ側の歯車が少しでも狂えばアウト」「超の予測を越えた策戦*1を用いてようやく互角」という具合に、条件は恐ろしくシビア。
  2. 超陣営は揃え得る最高の人材を確保した上で計画実行に臨んでいるが、ネギパーティーは学祭期間中に成り行きで仮契約した味方(夕映・パル・千雨)の助力がなければ打破できない局面が多すぎた。
  3. また、超側が常にベストコンディションで戦いに参加していたのに対し、ネギ側は常に消耗と動揺を強いられていた。
  4. カシオペア個人戦闘に応用しなければ、最終戦闘でもネギの勝ち目はなかった。これについて、超は(VSアスナ・刹那戦での使用を通じて)ヒントを与えたにすぎず、ネギが自力で編み出す必要があった。

 具体的な場面の引用は省きますが、詳しくはコミックスを読み返して確かめてみて下さい(笑)。

*1:無自覚の一般人を巻き込んだ魔法騎士団イベントが代表例

只今文章力リハビリ中

魔法先生ネギま!(17) (講談社コミックス)

魔法先生ネギま!(17) (講談社コミックス)

 前回のアニメ版『ネギま』考察について、コメント・リンク等ありがとうございます。
 後々改めてエントリを立ち上げる予定ですが、ひとまず覚え書きとして。

  • あるアニメが「良作」か否かは個々人の主観や評価軸に大きく左右される。自分自身の評価軸だけで、そのアニメを「良作」または「駄作」と断言するのは早計である。(主に自戒です。次項参照)
  • 当サイトの書き手=カタリベ自身は「作画の崩れ」をさほど問題視せず、ストーリー構成の破綻を理由にアニメ版『ネギま』が良作ではないと判断する。しかし、作画の質が「良作」か否かを大きく左右するという立場の人も大勢存在する。(前回のエントリでは、こうした見方の違いを無視して話を進めていました。すみません)
  • なぜアニメ版『ネギま』のストーリー構成に問題があるかといえば、「2クール26話という短期間」かつ「全員パクティオーのノルマ」という2つの制約が同時に存在するから。これは人選ミスというより、誰が担当しても同じ縛りがある限りは失敗を繰り返すと思われる。(そう考える理由は次回で述べる予定です)
  • ただ、『ネギま!?』の場合は前作と違い、シリーズ構想の時点でノルマを積極的に取り込んでアニメ版独自の路線を追求しようとしている。その根っこには、おそらく「長期連載で膨大化したキャラやエピソードをあえて切り捨て、ネギと3-Aの生徒中心で『ネギま』の世界をコンパクトに再編・提示しよう」という発想があるのではないかと思われる。なので一概に弊害であるとは言い切れず、今後の展開には期待。

『ネギま!』のアニメが良作になれない6つの理由?

魔法先生ネギま!(17) (講談社コミックス)

魔法先生ネギま!(17) (講談社コミックス)

 元記事は「ネギま!のアニメが良作にならない6個の理由 」(from:CWDさん)。
 タイトルをパクっておきながらこんなことを言うのも恐縮ですが、内容的にはむしろ「ネギま!のアニメが良作”ではない”6個の理由」の方が適切かなあ、と思います。出来上がったアニメへの評価を話題にされているという点において。


 ……で、ここから本題。
 あくまで主観と憶測にすぎないことは前置きしたうえで、アニメ版『ネギま!?』が2シリーズ連続で怪しい方向へ飛んでしまうことになった原因を自分なりに考えてみました。

(1)原作者とアニメ企画者の思惑の不一致、ターゲットの違い?

 後述の(2)〜(5)と被りますが……真っ先に挙げられる問題点は、「原作が少年漫画的大河ストーリーを志向しているのに対し、アニメ版は萌えを前面に打ち出しすぎている」ことです。
 原作版『ネギま!』の少年漫画志向について、詳しくは赤松健論(by:いずみのさん)を参照願います。ひとまず、原作は主人公ネギの成長物語が大きなウェイトを占め、3-Aの生徒たちも敵味方双方のサブキャラも「日常と非日常(魔法世界)の対比および融合」「ネギの成長」に関与しながら徐々に立ち位置を確立していくのが特色、ということで。
 一方、アニメ版(やゲーム版など他メディアに展開された)『ネギま』は、「31人+αの多種多様なヒロイン」を最優先にアピールしています。ぶっちゃけ、少年漫画誌の読者よりも美少女アニメの視聴者や美少女ゲーム(ギャルゲー・エロゲー双方?)のプレイヤーを対象にした制作姿勢だと言えるでしょう。もちろん原作でもセールスポイントの一つであることは確かなんですが、作品としての軸やアピール対象は明らかに異なるわけです。
 喩えるなら、『ネギま!』の原作と他メディアは頭を2つ持った巨人のような存在です。スタート地点で2つの頭が別の方向を目指しているのに、同じ体(=基本設定とキャラ)で走ろうとするから、迷走するのは当たり前だと思うんですよ。
 2作目の『ネギま!?』では、そこらへんを考慮したのか少年漫画的なオリジナルストーリーラインを組み込んで軸にしようとしていますが、かえって難しいでしょう。理由は後述。

(2)原作の連載期間とアニメ放映期間(話数)の不均衡

 これは単純明快。150話以上続いて未だに終わりが見えない原作を、たった26話で再現しようとするのは無理がある。それだけの話です。
 もちろん、アニメスタッフは26回で話が纏まるようにシリーズ構成するわけですが……そうすると、原作のエッセンスをどう取捨選択するか? 何を柱にして、どのように全体像を構築するか?という話になります。その切り分け方を間違えたせいで上手く行ってないんじゃないかなあ?というのが、アニメ版に対する不満の一つ。
(→(3)に続きます)

(3)TVシリーズ単体のストーリーライン

 こんな風に話を進めてると自分はガチガチの原作原理主義者に見えるかもしれませんが、そうでもありません*1。むしろ、別にアニメ版が萌え狙いで原作とかけ離れた作品になっても構わないと思います。視聴者が楽しめる作品になりさえすれば。
 ではなぜ不満なのかと言えば、アニメ版が中途半端に原作のストーリーや方向性を再現しようとしているせいで、どっちつかずになっているから。
 この点においては、黒歴史と呼ばれた第1期はまだマシな方で、なまじシリアス寄りで少年漫画的なストーリーラインを組み込んでしまった『ネギま!?』の方が深刻だと、自分は思います。
 個人的には、2クール26話を前提にアニメ化するなら、原作のストーリーラインはきっぱり無視して「萌えヒロインたちが繰り広げる日常コメディ」を売りにし、連続性の薄い1話完結物にするべきだった……と考えます。ネギが赴任してきた事情とかは適当に端折って、あの世界設定は暗黙の了解ということにして。ぶっちゃけ、第2期では『ネギま』の設定をいい意味で無視して『ぱにぽにだっしゅ!』そのまんまなノリのアニメをやってくれることを期待していたくらいです。
 でも実際には、『ネギま!?』のシリアス部分は萌えともコメディとも相性が悪すぎます。「スタークリスタルの謎を追う」というストーリーラインで話に求心力と指向性を与えるのは良いとしても、そこにネギの過去や黒薔薇を執拗に絡めたせいで必要以上に話が重くなってしまっているんですよね。
 逆に、原作から日常的なドタバタエピソードを中心に抜き出した第1期の方が、アニメ化の手法としてはまだ良かったと思います。作画と火葬を抜きにすれば。


 ただ、『ネギま!?』のスタッフを一方的に責める気もありません。恐らくスタッフ内にも相当数の原作ファンがいて*2、自分なりに面白いアニメ版『ネギま』を再構築したいという気負いがあったのでしょう。
 また更に、アニメ版を作る上でどうしても避けて通れない縛りがあったと考えられます。アニメ版『ネギま』、最大の癌とは……

(4)「パクティオーカード・ネオパクティオーカード商法」が劇中に及ぼす歪み

 やはり、「まず仮契約カードありき」という企画者&スポンサーの意向が、制作姿勢を呪縛しているのがマズい。マズすぎます。
 もちろん、仮契約を巡る一連のシステムが『ネギま』という作品の特色であることは確かです。……しかし、原作での仮契約は、各ヒロインにとって「ネギとの特別な絆」であり「非日常への参加」の鍵でもあるという非常に大きな意味を持っています。契約条件のキスが彼女たちにとって心理的な壁となっているのも、「少年漫画のラブコメ」として『ネギま』を読むなら実に自然なこと。
 ところが、企画者側にとってはそうじゃないようです。「さっさと全ヒロインがパクティオーカードを入手して派手に活躍してくれなきゃ困る。ていうか、パクティオーカードをグッズ化して売るからアニメでも既成事実を作れよ!」という思惑が見え見えなんですよね。事実、アニメ版では第1期・第2期とも実にあっさりと全員*3パクティオーかましてくれました(苦笑)。
 仮契約=キスという行為の重要性を認識しているにせよ、「キスするまでの過程」と「キスしたという事実」のどちらに重きを置くかという点で、原作とアニメは正反対なわけです。


 ただ、自分の邪推なんですが……『ネギま!?』の全員パクティオーはスタッフにとっても苦肉の策だったんじゃないかと思います。
 というのも、ネギが連続パクティオーする羽目になった元凶であるモツとシチミが嫌われ役として描かれていること(マスコットキャラ的な外見のオブラートに包まれてますが、言動や立ち位置は不快感を禁じえません。また、第1期で似たような立ち位置を演じていた原作キャラのカモを「嫌われ役」から解放するために、オリジナルキャラをスケープゴートにしたんじゃないかと。さらに穿った見方をすれば、モツとシチミはスポンサーやO月Pの擬人化的存在?)。また、『ネギま!?』の全員パクティオーハピマテが流れたのは自嘲交じりなパロディにも見えること。そして何より、物語中盤で全員仮契約を敢行したこと。「どうせノルマとして強制されてるなら、さっさと済ませてパートナー能力をストーリーに組み込もう」という、前作よりは前向きかつヤケ気味(笑)な姿勢が感じられます。
(もう一つ付け加えるなら、自力でファンタジー的能力を発揮できるエヴァ茶々組が、『ネギま!?』ではネギとの仮契約を免れている点にも注目。代わりに妙なボケ役と化しているのは謎ですが……。)
 正直、相坂さよの着物姿も可愛かったし、各ヒロインのパートナー能力がどんな風に描かれていくのかは素直に楽しみです。

(5)ウェールズ組(ネカネ&アーニャ)とクラスメイト組の出番のアンバランス

 これも何気に問題。
 ただでさえクラスメイト組の総数が多くて出番配分が大変なはずなのに、事あるごとにネカネやアーニャが出しゃばりすぎです。彼女たちの出番が多ければ多いほど、本来ターゲットとして想定されているはずのクラスメイト組ファンには不満が溜まることでしょう。自分もネカネとアーニャは嫌いじゃありませんが、この悪目立ちはちょっと酷いというのが正直な感想。
 シリアスなストーリーラインを構築するために「ネギが固執する過去」の象徴としてウェールズ組を強調しているのか、それとも単に中の人を多く使いたいだけなのか*4? いずれにせよ、もう少し上手いやり方があったんじゃないかと思います。

(6)予算および人手の不足、スケジュールの圧迫?

 作画崩壊で不評を被るというのは作劇の方向性と無関係の話で、正直『ネギま!』に限った話ではありません。自分も見出し以上に突っ込んだ解説はできないので省略します。
 とはいえ、パッと見で一番わかりやすく突っ込まれやすい欠点なので、売る気があるなら何とかしろよと思わないでもありませんが(笑)。



まとめ?

 ……要するに。
 「原作とアニメ版とで大きく隔たる方向性を無理やり収束しようとした結果、各処で歪みが生じている」のが最大の理由だ、と自分は考えます。(前述した(1)〜(5)は、結局この1文に集約されます)


 話は脱線しますが。2chの週刊少年漫画板を見ていると、『ネギま!』に対して否定的なマガジン読者は結構多いようです。でも個人的には、ネギま!』は少年漫画としてマガジンに載っているからこそ意義がある作品だと思うんです。
 完全に萌えオタ狙いで行くなら、それ系の漫画誌は引く手あまたですし、赤松氏自身が手がけた『陸上防衛隊まおちゃん』のように企画原案だけ担当し、余計な縛りや破綻の少ない萌えアニメを作ることだって可能なはずです。
 ……しかし、赤松氏は「少年漫画としての『ネギま!』」に拘りつづけ、なおかつ受け手や他メディア展開が萌え中心になることも承知のうえで、あえて荊の道を歩んでいる。だから、想定ターゲットが異なるアニメ版との間に軋轢が生じるのは避けられないんでしょうね。




 文章を書くリハビリのつもりで軽く着手したはずが、やたらと気負いすぎた長文になってしまいました。ひとまず今回はこれにて失礼。

*1:原作信者なのは確かですけど(笑)。

*2:このせつの描写など、随所に原作への愛が感じられるのは間違いありません

*3:厳密に言えば、『ネギま!?』の方ではエヴァ茶々丸以外の全員。

*4:余談ですが、モツ&シチミの中の人も一緒ですね

カードとCD、どちらが「オマケ」なの?

 さらに愚痴続きでゴメンなさい。
 先日、K-BOOKSで『ネギま!』の中古キャラCDを物色してみたんですが……キャラによって値段に大きな開きがある(エヴァ様:3150円、ちう・いいんちょ:1575円、科学と肉まん:1050円)のはさておき、仮契約カード無しのCDが軒並み525円で投げ売りされてることに思わず首を傾げてしまいました。そりゃまあカードの出来はいいし、コレクターの心理だって分からなくもないけれど、単純計算で特典カードが千円相当=CD本体よりも高いというのは、いくらなんでも頑張って歌ってる声優さん達に対しては酷い仕打ちなんじゃないかと。
 ちなみに自分もネギまファンの分際で『ハッピー・マテリアル』オリコン1位運動には乗り気になれなかった薄情者ですが、カラオケ屋で友達が冗談混じりに入れたハピマテを歌わされた時に「え、もしかして2番の歌詞も月ごとに違うの!?」と気付いて以来、全種類集めようかどうか迷い中だったりします(笑)。カードは要らないからレンタルでもいいんですけどね。