紅蓮魔氏の「ときメモ」プレイ日記に対する疑問。

 まだ連載(?)途中なので、勇み足な感想かもしれませんが。
 個人的には、今回の『ときメモ』プレイは「萌えの理解」に対して役立たないのでは? と懸念しています。理由は3つ。

 第一に、『ときメモ』は「(記号化・データベース化された)萌え」の概念が成立する前に生まれた作品であって、(某所で指摘されているように「後からデータベースに取り込まれ、萌えの対象となった」ものの)最初から「萌やすために作られた作品」ではないから。
 『ときメモ』をプレイした時に感じるのは「ときめき」であって「萌え」ではない……というのが、今も変わらずに抱いている想いです。
 どちらかといえば『Kanon』(キャラの内面設定とは無関係に設定された、口癖や好物の食べ物などによる個性づけ)や『シスタープリンセス』『ハッピーレッスン』(同じ「萌え属性」のキャラを集中投下したコンセプト作)などの方が、「萌え」の理解に適しているのではないかと。

 第二に、現在の「萌え」は市場に溢れかえっている大量の萌え作品を浴びるように大量消費して感覚が麻痺り慣れてしまった末の感情という性格が強いので、1つの作品をプレイしただけで「萌え」の感覚を掴むのは無理があるのではないか、と。
(かなり辛辣な言い方になってしまいますが、「可愛い」と思ったもの・好きなものに対して何の区別もなく「萌え」と言ってしまえる無思慮な愛着こそが「萌え」の正体であるように思えます。数年来ずっと傾倒しつづけてきた思い入れの深いキャラも、見た次の日に忘れてしまうようなキャラも、同じ「萌え」という言葉で片付けてしまえるようになったら、たぶん「萌えオタ」としては一人前なんでしょうね。そこまで解脱するのは、自分には無理ですが。)
 そういう意味では、ゲームを1本プレイするよりも、2chの半角二次元板やオタ系ニュースサイトのリンクを1晩くらい見て回る方が早道かな?という気もします。……トピックの拡散ぶりや賞味期限の短さも含めて。

 第三に、紅蓮魔さんのプレイ日記が今のところ「理解を拒絶する立場から書かれた」文章のように見えてしまうこと。これが一番心配です。
 日記の中の『ときメモ』の奇妙さに対する容赦ないツッコミは妥当だし、プレイヤーの多くが実際に同じことを感じています。
 ただし信者級のヘビープレイヤー(所謂「メモラー」)が、そういった奇妙な部分や矛盾点を何の疑問も不満も持たずに甘受しているわけではありません。『ときメモ』の世界は数あるギャルゲーの中でも比較的わざと荒唐無稽に作られた向きがあり、それは「リアルな恋愛ゲーム」ではなく「学園ラブコメ漫画のような擬似生活を楽しむ”ごっこ遊び”」の舞台に適するようカリカチュアされています。ミステリの「お約束」に逐一ツッコミを入れてもきりがないように、『ときメモ』の世界の奇妙さを気軽に笑い飛ばせるかどうかが、この手のゲームを楽しめるかどうかの一つの分岐点になるわけです。
 正直、あのプレイ日記を(開始までの経緯も含めて)読む限りでは、ネタとして突っ込んでいるのか、それとも批判のための批判で終わってしまうのか判断しがたいところ。
 ……でも最初に反発が激しい人ほど「ときめいて」しまった後の落差は激しいので、生暖かく見守らせていただきます(笑)。